ちょっと柔らかくなってみた(笑)。

いや、改訂前はちょっと冷たく断罪しすぎたかなあと思ってね。別の切り口からイってみた。とはいえ、マ神ファンには面白くない意見かもしれんのだけどさ(苦笑)。見にくいけど直しているヒマ無し。後で後で。

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 ジダン聖人君子化が納得いかない、という意見があるが、マテラッツィ、イタリアのファンには酷な話だが、ワールドカップが終わり、ピッチから出た後の数日間、両選手が行った行動で全ての流れが確定していたように思う。

 そもそもサッカー選手に限らず、有名人というものは、専門誌やネットなどでスクープや発言などの情報を収集しない限り、表層的には「悪い人間には見えない」。ワールドカップでに関しても、一部の情報通を除く一般視聴者にとっては、マテラッツィジダンも、「神*1」のようなものだと思う。もちろん数多ある神話同様、「有名な神」と「知る人ぞ知る神」の違いはあったけども(日本における知名度に関して、CMにも出ているジダ>マテ。これは断定でも構わないかな?)。

 さて、ワールドカップ終了後の二人だが、あくまで「自分が見た」頭突き関係の報道だけを時系列順に挙げてみる(誤訳の危険性はあるが、伊語も仏語も知らないので、そこは勘弁願いたい)。

 まずマテラッツィの言動・行動だが、記憶に残っているのは、

  ・差別発言、侮蔑発言していない。
  ・「15歳で母を亡くした自分が、誰かの母を侮辱することはあり得ない」*2
  ・差別発言は無いが、「姉に関してだけ」侮蔑発言を認めた(確定)。
  ・ローリングストーンズのライブに行った(確定?)。
  ・コンサートで問題発言をした・してない。
  ・FIFAで20日に行われる両選手を呼んでの事情聴取を、バカンスを優先するために先にしてもらった。

 次にジダンの言動・行動だが、

  ・頭突き、平手打ち、足踏みなどで、一発退場の回数、年4,5回ある時も(朝生でのみのさん解説)。
  ・釈明会見。全文入れておきます。別のHPのコピペなので、これも疑おうと思えば疑えますが、親ジダンではない人のHPだったのでOKかと(笑)。

   「私の行為に弁解の余地はありません。ファイナルは放送を通じ20億〜30億の方が観たと聞いています。

    子供たちもかなりの人数が私の暴力行為を目撃したはずです。この場を借りて全ての子供たちに謝りたいと考えています。私を許してください。
    さて私があのような行為に至った理由ですが、まずマテラッツィと緊迫したのはあの場面だけでした。
    試合を通して彼とトラブルになっていた事実はありません。映像を見れば判る通り彼は私のシャツを掴んでいます。
    そこで私は‘やめてくれないか。そんなにシャツが欲しければ試合が終わったらあげるよ’と申し出ました。

    そこから彼の罵声が始まりました。この場ではとても言われた言葉をそのまま口にすることは出来ません。  

    ただ中身は私の母親と姉に関係するものでした。そのニュアンスは非常に粗暴で侮辱的なものでしたが最初は私も無視を決め込みました。
    ただ執拗に繰り返され、3回目で我慢の限界を迎え最終的には報復という行為に出てしまいました。
    私は男として聞くに耐えない言葉には行動をもって反論するのを選択します。とても聞き流すのは不可能でした。
    繰り返しになりますが私の行為は決して許されるものではありません。
    ですが私は全世界の方に謝罪はしても決してマテラッツィには謝罪しません。彼だけには私の謝罪を受ける権利はないんです。
    なぜなら彼に頭を下げるということは彼の発言を受け入れたことになるからです。彼だけはやられて当然のことをしたんです。
    私はその観点からは自分の行動は正しかったと感じています。
    引退の撤回?決めたものを覆す意志はありませんし、覆したいと願ったこともありません。もう答えは決まっているんです。
    今後は少し休養して、それから身の振り方を考えます」

  ・大統領府のバルコニーで手を振る。

こんなものかな。

 唯一正しい情報とは米英トップの内緒話の様に(笑)、本人の肉声だけと言える。が、マテラッツィに関してはほとんど無く、「言っていない」という趣旨の発言をしてその場を去る映像を最初の頃に見たきりで、後は全く真偽が不確かな情報しかなかった。対するジダンは会見の全てが彼の考え(もちろん真実ではない)といえる。

 しかして、この会見こそが、イタリアとマテラッツィファンと情報通*3のサッカーファンを除いた一般大衆の感情バランスが、ジダン側に傾いた分岐点だと思われる。

なぜなら、一般の「日本の視聴者」にとって、先の情報だけを元にした「ワールドカップを離れた一人の人間としてのマテラッツィ」像とは、今の時点で

   ①:ジダンの姉を「侮蔑」した(ほぼ確定でいいのかな?)。
   ②:(①が真実の場合)侮蔑発言をしていないという「嘘をついた」。

である(ここは言い切り)。
また「真に罪を犯したことが確定しているのなら、まず何に置いても謝罪するべき」という普通の感性の前では、

   ③:嘘をつき、侮蔑発言の謝罪をしない。
   ④:謝罪もせずに遊びを優先した不真面目さ。

が印象に追加されるだろう(推測)。

対して「ワールドカップを離れた一人の人間としてのジダン」像とは、

   ①:罪を認め、子供達に謝罪した。
   ②:身内を侮辱されたから、2回耐えたが3回目で耐え切れず殴った。
   ③:自分の行為は許されないものと自覚している。
   ④:マテラッツィを除く全世界の人に謝罪した(してもよい、とも取れるが一応①と同じ解釈)
   ⑤:マテラッツィへに暴力をふるったことに関してだけは正しいと思っている。彼に謝罪することは身内への侮蔑も肯定しなくてはならないからだ。

となる。実際この釈明は、自分の感性でもかなり出来が良く感じられた。というのも、子供達に対しての謝罪、男としての意気、不退転の決意など、一般大衆に受ける「カッコイイ」要素を随所に感じたからだ。

自分の釈明会見だけに、自分に「都合の良いことを言っている」「開き直っている*4」という意見も勿論あるし、あって当然だと思うが、逆に言えば「都合の良いことを言っていない」確率も、「真実、嘘」という1,0的な見方においては、イーブンにまで引き上げていると言う点で、未だ全てがほぼ0%(というか侮蔑発言確定でマイナスか)のままのマテラッツィより優位だと思うのだ。

また「暴力行為を正当化していいのか」「ジダンはサッカーというスポーツを暴力行為で汚した」と言う意見も数多く見られるが、この意見、最初から矛盾*5を含んでしまっている為、明かに威力が弱い。というのも

・情報通の人が乱発した「サッカーでの差別・侮蔑は当たり前*6」により「サッカー=汚いスポーツ」という認識が生まれている。
・「身内の悪口を言われたから耐えられず」というジダンの台詞は一般的には正当な理由に聞こえてしまう*7

からである。特に前者の常識?が多くの人に知られた(かもしれない)今、「元々差別や侮蔑だらけの汚れたスポーツなら、一品増えたからといって何の違いがあるのか?それ以前に差別や侮蔑を無くすべきではないのか」という改善をも踏まえた意見の前に、単に「暴力はいけない」と繰り返すことにどれほどの効力があるだろうか。

また「MVPにふさわしくない」という意見も、ジダンがMVPより身内の名誉の方に価値を見いだしているように感じる今となっては、ジダン批判、マテラッツィ擁護の(下世話な言い方だが)援護射撃としては威力が弱い。本来、暴力行為を働いた時点で、サッカーというルール上では、ジダンがMVPにふさわしくないのは当たり前だが、先の「サッカー=汚いスポーツ」や、マテラッツィの姉に対する侮蔑発言が確定した今となっては、「暴力行為」そのものが、先述した理屈同様、「悪い行為」であるにも関わらず、勧善懲悪の絶対性を失ってしまうからだ。

以上のような思考を経た結果、ジダンの聖人君子化は相対的なモノの見方の結果であり、仕方の無いものだと、自分は考えています。

   ・他意無く見ても、世界に向けて自分で意見を述べたジダンの行動は(例え嘘の確率を含んでいても)「大人に見える」のに対し、マテラッツィが「今*8」行っている行動は、「親(弁護人)にかばってもらう間、逃げ回って遊んでいる子供」の行動にしか見えない。

   ・スタートは同じ神であったはずなのに、両選手の神格は「ジ神」>>「マ神」となりつつあり、それも「マ神」は自己責任によって失いつつある。

 そんな状況で、マテラッツィ・イタリアファンにとって、何を聞いたところで(というよりジダンの情報しか入らないのだが)「ジダンを聖人君子扱いしている」としか取ることが出来ないのもむべなるかな。というわけです。

マテラッツィジダンから時を置かずに釈明会見をしておけば、ここまで酷くは無かったはずなのだがなあ。遊んでるのはマズイよ。やっぱ。

さて、俺個人の最終的な偏見を述べよう(笑)。
先に身内の悪口言われた時点で、ジダンに義が発生したと思うし、黙っているなんて人として男としてあり得ないと思っているし、逆に黙って耐えている男なんて気持ちが悪いし、殴った後に「お、俺は人を殴ってしまった...!」などと悲劇の主人公ぶる男がいたら気持ち悪いし、そんなんで後悔する男も気持ちが悪い(笑)。 そもそも先に侮蔑発言をした人間に、殴ったことを謝るなんてありえないでしょうよ(苦笑)?「許せないから殴った」のに、なぜ「許してくれ」と言わなければならんのだ?それでも。あくまで「どんな状況でも暴力行為という罪は0にならない」と主張する方は次の問いに答えて頂きたい。

「あなたの恋人を私が襲っている時に、彼女を助けるためにあなたが私を殴ったとします。では、事の後にあなたは私に『殴ってすみません。心から反省しています』と謝ってくれますか?」

 これ、Yesと言える「男」はいないと思うよ?(もちろん「No」と答えた時点で、自動的にジダンの会見を肯定せざるをえないわけです)。暴力を全肯定するわけではない。必要なときも有り、肯定できることもある、ただそれだけのことが何でわからんのだろう。

 暴力という行為に及んだからこそ、ジダンに対して、神や聖人の類から身近な人間性を感じたのが支持された一端でもあったと思うね。この場合、先の相対的という点では、マテラッツィ=神、ジダン=堕天てわけで逆になるけど、悪態をついたことしか記録・記憶にない大上段の神より、人の間に降りた神が慕われるのは当然の帰結じゃない?

 35年しか生きていないが、少なくとも自分にゃジダンの行動は、成功もすれば失敗もする「人間」にしか見えんかった。そういうことデス。

*1:「自分」という人では到達できない領域にいる、手の届かない存在という意味で

*2:ちなみにこの歳でいないからこそ、他人の母親が嫉妬の対象になる可能性も50%はあるハズだが...なぜ皆スルー?

*3:主にサッカーの試合では差別・侮蔑が当たり前という通念に至っている人

*4:んでも、謝罪=開き直り、というのはおかしくないか?

*5:差別・侮蔑による”口撃”、服掴みがすでに汚い行為

*6:更にイタリア人とフランス人のインタビューでは、必ずイタリア人の一人が言うシーンが放映されるのもマテラッツィにとっては逆風に感じる。

*7:それも2回も耐えた、という付加価値がついている。相対的に3度繰り返したマテラッツィは「陰湿」な印象を持たれてしまう

*8:過去の「アンフェアなプレーで有名」という風聞を除いた上で判断しても