お腹が減ったよう

寝るのがAM6時。起きたのはPM1:30。
メール確認。頭突き事件をトラックバックで引用してくださった方がいるみたい...(確認)。
「こちらの論考がわけても頷かされました」だなんて!身に余る光栄であります。

ていうか、その後の『<イタリア>FIFAのマテラッツィ処分に反発「不公平だ」 (毎日新聞)』という記事に吹く。結局、イタリアという国のイメージはこういう発言が出る時点で、悪い方にしか転ばない、ということがスポーツ評論家に至っても気づかないようで(苦笑)。

この考え方は危険だと思うんだけど、あえて「国民を含むイタリア」に対する印象を言うならば
「明るくて陽気、だけど悪い意味で子供っぽい陰湿さを持った愚か者。タロットの『愚者』」
といったところでしょうか?別段、どの国にだって必ずいるタイプでしょうけど、「国」単位のイメージでそれが見えた国家は、少なくとも今回のイタリアが始めてですよ。*1旅行番組で出てくるイタリアの人は親しみやすそうだし、風景も建築物も美しいのに。まさか「サッカー」というスポーツでこういうマイナス面を見てしまうとは思いませんでした。がっかり。

さて、イタリアは当然として、イギリスなんかは微妙に不服そうですが、所詮貴族様がお住まいになる差別の国ですからね(笑)。「FIFAはジダンを助けたかったのでは?」という言葉の裏には、
「差別してきた者達に『差別には暴力で報復してもいいんだ』という口実が与えられ、自分がその対象になる可能性」
への恐れ、それに対する牽制がありありと見て取れます(苦笑)。フーリガンとか、サッカーに関しておかしな連中も多いしね?
この分で行くと、不平不満を唱える国は大抵差別が根強く残っている国だろう、という想像はつきますな。

ちなみに頭突き事件のお題目は「侮蔑」のはずなのに「差別」を適用しているのは、この二つは発言の内容によっては幾らでも変換・すり替えが可能であり、かつこちらを適用した方が問題の深刻性が浮かび上がるように、という誘導です(笑)。というのも「侮蔑」「差別」とも「相手の誇りを傷つけた」という一点が根底にある限り、大して意味は変わらないのですよ。というか、「侮蔑」を「差別」にランクアップするのは簡単だということです。たまたま今回は白人と白人でしたが、相手がアンリ選手だったらどうなっただろう、とかね。そういった仮定、最悪の未来を想定、考察できない人は、永遠に事件の過程、顛末に不平不満を述べ続けるんだろうなあと思うのでした。

*1:北○鮮?あれは規格外にキ印な、唯一人のためのおもちゃなので、国などというイメージを持つことは出来ませんな。